批判と批評/雑感 〜人はなぜ、人を貶めようとするのか。自分に自信を持とう〜

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2019.2.24 雑記

どうも、シバク・ドワレです。

昨日、インターネットニュースにて、世界の僻地訪問や自力でのアメリカ横断をする若者たちに対しての論文的記事を読み、それへの読者コメントをダラ見しました。

 

記事内容は、中学生がアメリカ大陸横断中に、ヒッチハイクや知らぬ家を突然訪ねて泊めてもらう旅や、女子大生がインドやアラブなどを独りで周遊し、同じく酒盛りに気軽に参加している光景を、どちらもSNSで気軽に発表する事に対しての現代の風潮を論じるものでした。

 

その旅を始めるにあたり、

「皆様に感動を与えたいので未知なる旅に出ようと思います。ついては、寄付をお願いします」

と、クラウドファンディングで資金集めをする事にも触れていました。執筆者の論旨はその寄付行為をなじるものではなく、それとは違うことが主旨でした。

 

それはともかくとして、本文が終わった後の読者コメント曰くの、

「感動を与えたいとの文言に違和感を感じる。感動は主観的に自らが感じるものであり、そのような発言は感動の押し売りである」

との意見が圧倒的に多い事に、私は反応しました。

 

私は逆に、それしきの言葉に違和感を感じる性格の人があまりに多い事にこそ、違和感を感じます。

そのような旅に於ける危険性は置いといて、それらの読者にとって、変わった旅をする若者が眩しすぎてそのような反応をするのかもしれませんね。

その記事に限らず、なにかを読んだあと批判の嵐である読者コメント。

例えば女子スポーツ選手が化粧をしたら責め、誰かが新幹線でたこ焼きを食べていたのを同席していた人が批判の猛嵐発信をする。

 

自分は冷めた評論家であるからして、他人から感動など押し付けられたくない。いや、なぜ腹の足しにもならぬ感動などしなければならないのか。

 

そんな人たちの批判コメントを見るにつけそんな風に捉えてしまう私こそ、冷めた評論家なのでしょう。

 

しかし、私の身体組成はほぼ感動した過去によりできており、それも未だ完成途中であり、感動が止まってしまうとボロボロと細胞が崩れ落ちる懸念があるのです。

確かに、スポーツ選手などがインタビューで

「皆さんに感動を与えたい!」

と抱負を語るのを聞くと、勝ってから言え。と思わないでもありません。

が、どんなスポーツでも業務でも趣味でも、勝つことのみ、目的を達成することのみが幸せだとは思いません。

結果はどうあれ、その過程にこそ楽しみや苦しみがあり、例え表彰台に上がることはなくとも、社長表彰を受けることがなくとも、必ずその過程の奮迅が後々の人生に加味されるはずです。

下へ続く

山の話になると熱くなり 

「登頂のみが登山では無いが、最初から登頂を目指さないのもまた、登山ではない」

を信念として山登りをしていた私は、むしろアタックに失敗した山行の方が多かったかもしれません。が、無事に生きて帰り、次の山行にその失敗を活かす事はしてきたつもりです。

 

私がかつて師と崇めており、私より数段、経験も実績も上の年配の登山エキスパートA氏からは、私の軟弱な登山方法を批判される事はあまりなく、むしろ良くやってきたと讃えられていたのですが、あるキャンプで焚き火を囲み呑んでいた時に決定的な事象が発生しました。

 

日頃は私の過去の登山やフリーランスの生き方を褒め称えてくれていた彼が、あまりの酩酊につい本音が出て、

「それくらいの登山歴を偉そうに語るな!最高に難しい山をした者だけが、登山を語れるんや」

と批評から批判に変わったとき、私は彼のことが可哀想になりました。

遂に、公務員であった彼の心に潜む、私の日頃の自由奔放さへの羨望と僻みが、口について出たからと感じたからです。

 

酔って自分を見失いかけてから批判するくらいなら、常日頃から正面切ってそうすれば良い。

なぜ、付き合いも40年に及ぼうかとの長きにわたり、社交辞令が必要なのか。誉め殺しとの文句が昔流行りましたが、正にそれだったのでしょう。

わがままし放題で奔放に見えるその大先輩が、70になり歳が行くに従って、実は努力して自由奔放に見せていた仮面が取れてきたのを垣間見て、少し寂しくなりました。

 

人間誰しも、歳をとるに従い、死が怖くなるのでしょう。そうなるにつれて、まだまだ死など恐れずに走り回る者を見ると、批判せずには精神が持たないのかもしれません。

私も、いずれはそうなるのでしょうか。

 

しかし私と彼との最大の相違点は、彼は健常者であり、私は末期がん患者である点です。

健康な人ほど、健康を失う事に恐れを抱く。

一方でいつ死が訪れても不思議でない期間が長くなるにつれ、死を客観的に捉えて、他の生活上のアクシデントにも動じない死生観が生まれる。

 

それが、誰でも100%死ぬことが決まっている、人間とはか弱い存在だと思う出来事でした。

2019.2.24

 

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